街には人がいる。駅にも、店にも、歩道にも、人が溢れている。朝から夜まで絶えず人が行き交い、街は生きているように見える。それなのに、一日中歩いていても、人と人はほとんど接することがない。同じ空間に何千人もの人がいるにもかかわらず、その日は誰とも関わることなく終わってしまう。それが特別な日ではなく、ごく普通の一日になっている。
街にはあらゆるものが揃っている。飲食店も、服屋も、映画館も、書店もある。少し歩けば次の店があり、その先にもまた店がある。現代の都市は驚くほど豊かだ。しかし、その豊かさのほとんどは消費のために用意されている。食べる場所はある。買う場所はある。時間を使う場所もある。しかし、人と自然に関わる場所はほとんどない。
もちろん、人と話す機会がまったくないわけではない。店員と言葉を交わすことはある。受付で名前を伝えることもある。しかし、その関係は金銭や手続きを介して成立している。支払いが終われば終わる関係であり、人と人が出会ったという感覚とはどこか違う。街の中で成立している関係の多くは、人間同士の関係ではなく、役割同士の関係である。
それ以外になると、街は驚くほど静かになる。知らない人に理由もなく話しかけることは難しい。話しかければ警戒されるかもしれない。だから誰も話しかけない。誰も話しかけられない。結果として、何千人もの人が同じ場所を歩いているのに、互いはただの背景になっていく。
考えてみれば、これは少し奇妙である。人間は社会的な生き物だと言われる。それなら、人が密集している都市ほど、人との関わりは自然に生まれてもよさそうなものだ。しかし現実は逆だった。人口密度は高いのに、人との接点は限りなく少ない。人はいる。しかし、人はいない。互いを一人の人間として見る前に、通行人として通り過ぎていく。
現代の都市は、人が人と出会う場所として設計されているのではない。目的を果たす場所として設計されている。働くために行く。買うために行く。食べるために行く。用事を済ませるために行く。そこには必ず目的がある。しかし、目的を持たずに街にいる人には、何も起こらない。ただ歩き、時間が過ぎ、帰るだけである。
豊かな社会だと言われる。そのこと自体は間違っていないのだと思う。便利になった。安全にもなった。店も増えた。選べるものも増えた。それでも、街を歩いたあとに残るのは充実ではなく、妙な空虚さだった。何かが足りないというより、最初から何も始まっていないような感覚だけが残る。
もしかすると、この社会は孤独な人を生み出しているのではない。もっと静かで、もっと奇妙なことが起きている。人がいても、人と出会わない社会を作ってしまったのである。誰かに拒絶されたわけでもない。誰かに追い出されたわけでもない。それでも、人で埋め尽くされた街を歩きながら、自分だけが社会の外側にいるような感覚になる。
これほど人が集まる場所をつくりながら、人と人が自然に関わる仕組みだけは、どこにも見当たらない。それを豊かさと呼ぶのなら、その豊かさは、どこかひどく空虚である。
人が人と出会わないことが、この社会の設計なのだとしたら、その逆を設計することはできるのだろうか。最近はそのことばかり考えている
—
Written by stilloperable
GlassRoom
ToBeAlive Project












