誰みたいになりたいかはわかった。 では、その人と違う何を自分でやってみたい?
この問いを誰かに向ける前に僕自身がどこに立っているのかを考えてみる。
誰かのようになりたい人がいる。誰かとグループをつくりたい僕がいる。どちらもまだ経験していない未来を見ている。
僕はまだメンバーを集められていない。この文章は誰かに答えを教えるためではなく同じ不確かさの中にいる僕自身へ問いを戻すために書いている。
欲望はどこから来るのか
「あの人みたいになりたい」という言葉を聞くと僕たちは何かを理解した気になる。顔も声もステージも知っていれば話が早い。でも共有できたのは相手の願いではなく参照先の名前だけかもしれない。同じ人を好きでも欲しがっているものまで同じとは限らない。
そもそも誰にも影響されていない願望なんてどこにあるのだろう。初めて聴いた曲がなければ欲しくならなかった声がある。誰かが踊っている姿を見なければ考えもしなかった場所がある。自分の内側から湧いてきたと思っているものの一部は他人との出会いによって初めて生まれている。
自分の願いを自分だけのものにしたいと考えるほど、その願いを生んだ出会いを消さなければならなくなる。誰にも似ていない自分を探そうとすること自体が誰かに影響された自分の歴史を否定してしまうのなら何を守っているのだろう。
それを借り物と呼んでしまえば僕が好きな音楽も今つくりたいものもほとんど借り物になる。誰かに影響されたことと自分の願いではないことは同じではない。むしろ自分というものが誰とも無関係に成立しているという想定のほうが少し不思議に思える。
見えているのは結果だけ
誰かがステージに立っている。その姿は見える。でもそこへ至る途中で何を諦め何を選び直し誰に出会ったのかはほとんど見えない。似た服を着て同じ曲を歌うことはできても同じ時間を通過することはできない。
他人の到達点を自分の初期条件として扱っていないだろうか。この一文には僕自身も引っかかる。僕もすでに活動しているグループを見てまだ存在していない自分のグループを想像しているから。見えている結果から必要な時間を取り除いて未来の図面だけを手元に置いている。
憧れる側とつくる側で使っている言葉は違う。それでも見えない過程を飛ばして見える結果を欲しがるとき僕たちはよく似た場所に立っている。
「違うことをしよう」という別の模倣
ではその人と違う何を自分でやってみたいのか。この問いを気に入っていた。けれど考え続けると問いそのものが少し怪しくなる。
誰かに似たいと言う人に向かって誰とも違うものを示してほしいと求める。それは模倣から自由になるよう勧めているつもりで「独創的であるべき」という別の型を渡しているだけかもしれない。違いを提出できる人だけを面白いと思うなら僕はその人の経験より自分の期待を先に置いている。
違うことを目標にすると判断の中心にはいつまでも比較相手が残る。あの人と同じではないことを確かめるためにあの人を見続ける。模倣から逃れようとして別の形で模倣に縛られる。その循環の外に出たいのなら他人との差を数える前に自分が何に反応したのかを確かめるしかない。
同じ曲を選んでも同じ出来事にはならない。同じ振付で踊っても身体の記憶は違う。違いは初めから持参する資格ではなく何かを一緒にやったあとで初めて気づくこともある。僕が知りたいのは誰とも似ていない証拠ではない。まだ起きていないことを他人の名前だけでは説明しきれないという事実のほうなのかもしれない。
僕のグループにはまだ誰もいない
僕はアイドルグループをつくろうとしている。音楽を考え衣装や映像やWebについても考えてきた。でもメンバーはまだ集まっていない。僕の頭の中では何度も始まっているものが現実には始まっていない。この違いを言葉だけで縮めることはできない。
ときどき僕が欲しがっているのは一緒につくる相手なのか。それとも僕の考えていることが間違っていないと証明してくれる存在なのかと思う。もし誰かが来てくれたという事実を自分の理想の正しさに換えてしまうならその人の参加を僕のための証拠として使っていることになる。
反対に誰も集まらない現状を誰かの熱意が足りないせいにするのも簡単だと思う。でも相手はまだ僕と何も約束していない。僕の計画がその人の時間を受け取る理由になっていないのかもしれない。そもそも僕が示している未来を相手が望まないのかもしれない。
ここで初めて憧れを語る人に向けていた問いが僕のほうへ返ってくる。僕はどんなグループをつくりたいかを話せる。では僕の知らない誰かが加わったとき何を変えられるのだろう。
想像の中の誰かは断らない
頭の中で想像しているメンバーは僕が考えた音楽を聴いてくれる。衣装を着てステージに立ってくれる。僕の計画を壊さない。けれどそれは相手ではなく僕の想像の中にいる登場人物にすぎない。
現実に出会う相手には好き嫌いがある。やりたくないことがある。自分の時間を別の場所に使う理由がある。僕にとって大切なものが相手にも大切とは限らない。そして何より相手は断ることができる。
この「断れる」という事実は形式的な条件ではない。僕がいくら未来を鮮明に思い描いても相手の返事だけはつくれないということ。誰かと何かを始めるとは自分だけでは決められない出来事を望むことでもある。
誰かが断ったとき僕は何を失うのだろう。活動の機会か。自分の計画への自信か。あるいは相手の返事を自分への評価として受け取ってしまうことか。断る理由は相手の側にある。僕がそこへ勝手に意味を足してしまえば返事を聞いたことにはならない。
もし断られる可能性を最初から排除したいのなら僕が欲しいのは協働ではなく従ってくれる役なのかもしれない。ここは曖昧にしたくない。
同じ場所にいても同じ役割ではない
とはいえメンバーを集めたい僕と参加を考える人がすべて同じ条件にいるわけではない。まだ先が見えないという点では似ていても僕には企画を提示する側として決めることがある。
何をするのか。時間やお金をどう扱うのか。写真や映像はどこに残るのか。参加したあとに意見が違ったらどうするのか。やめたいと思ったときにどう扱うのか。そうしたことを曖昧にしたまま未来の可能性だけを語れば相手に不確実さを引き受けてもらうことになる。
僕が知らないままでいたいのは誰かと出会ったあとに生まれる音や表現のほうであって相手が自分の時間をどう扱われるかという条件ではない。決めておくべきことと決めてしまってはいけないことがある。
一度の「やりたい」が将来のすべてへの同意になるわけでもない。状況が変われば考えも変わる。最初に交わした言葉を理由に相手のその後の選択を縛るのなら、一緒につくると言いながら最初の一日に相手を閉じ込めることになる。
相手と同じ場所に立ちたいという思いだけでこの違いは消えない。誰かの選択を受け取ろうとする以上、僕の側が先に説明すべきこともある。
活動の内容。時間とお金。記録の扱い。断ることとやめること。
どんな音が生まれるか。何を好きになるか。お互いの考えがどう変わるか。
二人がいても答えは二つの足し算ではない
僕がつくりたい音楽を持っている。誰かが歌ってみたいという願いを持っている。この二つが揃えば同じ未来が生まれるとは限らない。実際に顔を合わせて初めてわかることがある。意見が合わないこともある。思いもしなかった曲を好きになることもある。
誰かとつくることを自分の考えを人数分に拡大する作業だと思っていたら相手の存在は人数としてしか現れない。でも相手が自分とは違う選択をしたときにその違いを残して何ができるのかを考え始めたら当初の計画にはなかったものが生まれるかもしれない。
ここで必要なのはすべてを手放すことでも誰かに任せきることでもない。自分の好みを持ったまま相手の好みに触れて変化すること。反対に変えたくないことを言葉にすること。互いに相手の一部にならないまま同じものに関わること。
僕は偶然が起きる条件を設計したいと考えてきた。でも条件を用意できることとそこで起きることを所有できることは違う。出会いを望むなら出会ったあとで自分の考えが通らなくなる可能性まで含めて引き受けることになる。
自分らしさを最初に証明してから集まるのではなく集まったあとに自分の知らなかった自分が現れる。そういう順番もあるのだと思う。
まだ返事のない場所から
今もメンバーは集まっていない。この事実をきれいな意味に変えてしまうつもりはない。僕の伝え方が足りないのかもしれない。条件に無理があるのかもしれない。まだ知ってもらえていないだけかもしれない。理由は確かめていくしかない。
誰かのようになりたいという言葉の奥に何があるのかを知りたい。同じように僕がつくりたいと言う言葉の奥にあるものも自分で確かめたい。そこには他人の成功に惹かれる気持ちも僕の考えを誰かに認めてほしい気持ちも混ざっているはずだから。
まだ誰かが来ていないという事実には僕が説明できていないことがあるのかもしれないし、ただ相手に別の願いがあるだけかもしれない。どちらであっても相手の沈黙を僕に都合のよい期待へ変換しないでいたい。
誰みたいになりたいかはわかった。では、その人と違う何を自分でやってみたい?
この問いは相手に違いを証明させるためのものではなく僕が自分の理想を相手に重ね始めたときにも返ってくる問いとして置いておきたい。
憧れは借りられる。でも自分の経験は借りられない。そして一緒に起きることはまだどちらか一人のものではない。
僕はまだその相手に会えていない。だから未来について語るとき僕が知っていることと知らないことを取り違えないようにしたい。誰かがここへ来たとき最初に変わるのはその人ではなく僕の計画かもしれない。

