選ばなかったものだけ無傷で残る。
応募しなかったオーディションには落ちた自分がいない。送らなかったメッセージには返事が来なかった夜がない。出さなかった作品には誰にも見られなかった数字がない。本気でやらなかったことには「本気でも届かなかった」という証拠が残らない。
だから、やらなかったことは長く美しい。
歌っていたら上手くなったかもしれない。あの人と付き合っていたら続いたかもしれない。東京へ行っていたら別の仕事をしていたかもしれない。もっと早く始めていたら自分にもできたかもしれない。
全部、本当かもしれない。
全部、違うかもしれない。
確かめなかったから、どちらでもいられる。
可能性という言葉には前向きな響きがある。選択肢が多い。まだ決まっていない。どこへでも行ける。何にでもなれる。未来が開いている。
その状態にはもう一つの性質がある。
まだ現実に負けていない。
実際に歌えば今の声が出る。写真を撮られればその日の顔が一枚になる。誰かに会えば想像していた相性に答えが出る。作品を出せば見られるか見られないかが起きる。
可能性だったものが現実になると情報が増える。情報が増えるほど、できなくなる想像も増える。
「向いているかもしれない」は、やってみれば以前と同じ形では持てない。「付き合ったら幸せだったかもしれない」は実際に付き合えば別の事実に置き換わる。「本気を出せばできる」は本気を出した瞬間から結果を持つ言葉になる。
現実は可能性を叶えるだけではない。
可能性を減らす。
一つ選べば一つの未来が始まる。その瞬間から他の未来は少しずつ現実から離れる。進路を一つ決めれば残りの進路が消える。誰かと付き合えば誰とも付き合っていなかった自分が終わる。名前を出せば名前を出していなかった自分には戻れない。
選択が怖いのは失敗するからだけではない。
選んだ瞬間「まだ何にでもなれた自分」が一人分に減るからだ。
選ばなければ、その減少を遅らせられる。
まだ行ける。まだ始められる。その気になればできる。今じゃないだけ。いつかやるかもしれない。
この状態は自由に見える。しかもかなり居心地がいい。現実には一人しかいない自分を、頭の中では何人も持っていられるからだ。仕事を辞める自分もいる。何かを作る自分もいる。遠くへ行く自分もいる。誰かに愛される自分もいる。人前に出る自分もいる。まだ選んでいない限り、誰も完全には消えない。
未来の自分をたくさん所有している感じがする。
何も使わなければ。
ここには少し見えにくい交換がある。可能性を守る代わりに、現実から結果を受け取らない。やらなければ失敗は来ない。その代わり成功も来ない。嫌われることはない。その代わり知られることもない。向いていないと判明しない代わりに、意外と向いていたという事実も来ない。
可能性のまま置いておけば、自分の想像が最後まで主導権を持てる。現実に出した瞬間から相手の反応、身体の感覚、偶然、時間、自分では選べなかった結果が入ってくる。
選ばないことは何も失っていないように見える。口座からお金が減るわけでもない。傷もつかない。失敗の通知も来ない。
だから気づきにくい。
選ばなかった未来にも、時間は流れている。
十八歳でしかできなかったことがある。二十二歳だから似合った場所がある。その人がまだ近くにいたから言えた言葉がある。その街に住んでいた時しか起きなかった関係がある。ある季節の顔、身体、体力、無知、勢いが必要だったこともある。
可能性には期限が表示されない。
今日も選べるように見える。明日も選べるように見える。来年でも間に合うように見える。
ある日だけ突然「まだやっていない」が「もうできない」に変わる。
境目はたいてい見えない。
選ばなかったものは失敗として記憶されない。失敗なら原因を考えられる。悔しがれる。笑い話にもできる。もう一度やることもできる。
選ばなかったものには、その手続きがない。
存在しなかった出来事として消える。
自分が何を失ったのか確認する方法すらない。
「やっていたらどうなったか」は永遠に答えが出ない。そのため可能性は壊れずに残る。昔の自分の中にまだ才能がある。まだ別の道がある。まだ誰かと違う関係になれた。まだ別の自分がいた。
現実にならなかったから、老化もしない。
三十歳になっても、十八歳のとき始めていた自分だけは十八歳のまま完璧に走り続けられる。
実際の自分だけが歳を取る。
可能性をたくさん残していることと、未来がたくさん残っていることは同じではない。
可能性は持っているだけではこちらを変えない。歌えるかもしれない自分は声を変えない。人前に立てるかもしれない自分は誰の記憶にも入らない。愛されたかもしれない自分は誰かの一日を変えない。
可能性が現実へ入ったとき、初めて向こう側から何かが返ってくる。
思っていたよりできなかった。意外と好きだった。全然向いていなかった。知らない人に褒められた。もう一度やりたくなった。二度とやりたくなくなった。
どれも可能性の頃には存在しなかった情報だ。
現実になるということは、夢を叶えることよりもっと手前にあるのかもしれない。自分の予想だけで作られていた未来へ、現実の回答が一つ入る。
それだけで昨日までの自分には戻れなくなることがある。
可能性を失うことを恐れるほど、選ばないことは安全に見える。何にでもなれる状態を保存しておけば、どの未来も否定されない。
何にでもなれる状態を守ったまま、何かになることはできない。
使わなかった可能性は、壊れない。
叶わない代わりに。
stilloperable
































