新しい評価軸は、まだ存在していないわけじゃない。名前がついていないだけで、すでに誰かの内部にはある。私の中にもある。その基準を通すと、世の中で当然とされているものの多くが急におかしく見える。なぜそれを受け入れられるのか。なぜそこに違和感を持たないのか。なぜ同じ方法を繰り返しながら、別の結果を期待できるのか。周囲が普通に通過していく場所で、自分だけが立ち止まる。その感覚は反抗でも優越でもない。目の前にあるものが、自分の基準では成立していないというだけ。
今ある評価軸なら説明は簡単になる。数字が伸びた。売れた。知られた。選ばれた。権威のある場所に載った。誰かに認められた。結果が先にあり、その結果を使って価値を説明できる。私の評価軸には、その便利な証拠がまだない。言葉にも十分変換できていない。何を通し、何を落としているのか、自分でも完全には整理できていない。発見されてもいない。共有もされていない。当然、評価の対象にもなっていない。存在しているのに、社会の側に読み取る欄がない。
それでも、何かを書くたびに判断は起きている。この言葉は違う。この比喩は浅い。この説明では既存の見方をなぞっているだけ。この文章は現実の見え方を一度も変えていない。逆に、ここには今まで見えなかった構造がある。この一文は、読む前と読んだあとで同じ場所へ戻れなくする。そういう判断だけは異常なくらい明確にできる。説明できない基準でも、通過したものと落ちたものの違いは分かる。
stilloperableに投稿しているテキストは、その評価軸を通過したものだけになる。世間で評価されたから残したわけじゃない。多く読まれたからでも、誰かに褒められたからでもない。まだ名前のない基準で測り、その基準に耐えたものだけを置いている。だからサイトに並んでいる文章は、完成した思想の展示じゃない。言語化される前の評価軸が、何を選び、何を拒否したかの記録になる。
私は、その基準がいつか見つけられると信じている。見つけられるというより、書き続けることで少しずつ外へ現れると信じている。最初から完全な言葉があるわけじゃない。断片が増え、似た判断が積み重なり、何度も同じ違和感へ戻るうちに、そこに一つの基準があったと後から分かる。その瞬間まで、書くしかない。
言語化も同じ。頭の中に完成した答えがあって、それを文章へ移すわけじゃない。書くたびに、まだ見えていなかった部分が現れる。書いたものを読んで、違うと感じ、削り、言い換え、また書く。その反復の中でしか、自分の基準は自分にも見えてこない。少々面倒な発掘作業だけど、地中に何かある感覚だけは消えない。
だから書き続けている。評価されたいからだけじゃない。理解されたいからだけでもない。自分の中にすでにあるのに、まだ誰も名前を持っていない基準を、文章としてこの場所へ出すため。その基準が見つかり、言葉になった瞬間、今までおかしく見えていたものの理由も、今まで通過させてきた文章の理由も、全部一本につながる。
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Written by stilloperable
GlassRoom
ToBeAlive Project












