見えない機会損失
私たちは失ったものについては比較的よく考える。失った時間、失った金、失った関係、失った仕事。そこには「以前はあった」「手に入る可能性があった」という基準がある。だから差分を認識できるし後悔もできる。
存在を知らなかったものは失ったものとして認識されない。会ったことのない人、見たことのない場所、触れたことのない仕事、自分の語彙にまだ存在しない考え方。そのどれもこちらの世界に入ってこなければ機会損失として認識されることさえない。
私たちは自分が知っている世界の内部だけを見て自分の生活や未来を評価してる。
だがその外側にはこちらがまだ一度も認識していない壮大な領域がある。
自分が知っている人の外側にはその人たちが知っている人がいる。その外側にはさらに別のコミュニティがあり別の仕事があり別の文化があり別の判断基準がある。自分が使っている言葉の外側にはまだ持っていない概念がある。自分が好きだと思っているものの外側にはまだ好みとして成立していない対象がある。
こちらから見えていないだけで知らない世界はその先も続いてる。
その世界は単なる選択肢の一覧ではない。
一つの出会いが生まれるとそこから別の接点が生まれる。ある人を知れば、その人が持つ情報、人間関係、価値観、場所、習慣に接続する。そのどれかがさらに別の人や仕事への経路を開く。
最初は一本の枝にしか見えなかったものが分岐し別の枝と接続し時間が経つと一つの環境になる。人、言葉、仕事、感情、記憶、行動が相互作用を始めればそれはもう一本の枝ではない。
生態系。
問題は接続しなかった生態系は知らないまま通り過ぎて終わり。
存在したものを失えば痕跡が残る。存在を知っていたものを選ばなければ比較もできる。最初の接点そのものが発生しなかった場合その先に何があったかを復元する方法はない。
何にもならなかったかもしれない。一本の枝だったかもしれない。そこから新しい人との関係が生まれ新しい仕事を知り住む場所が変わり使う言葉が変わり数年後には今とは別の自分になっていたかもしれない。
判定はできない。
比較対象そのものが存在しない。
今日知っている世界は世界そのものではない。今日までに接続できた部分にすぎない。
自分が知っている人間関係、自分が理解できる仕事、自分が好きだと思えるもの、自分が考えられる問題。その全体はこれまで接続できた領域の結果でしかない。
その外側にはまだ自分の認識に一度も入っていない人がいる。仕事がある。文化がある。考え方がある。今の自分では理解できない価値観がある。
そこには自分がまだ想像できない未来もある。
それでも私たちは昨日と同じ場所へ行き同じ人と話しすでに持っている情報を使って今日も判断できる。
生活は成立する。予定は処理できる。昨日と今日の差がほとんどなくても特に問題は起きない。
退屈でも。
その間にどれだけの偶然の出会いが発生しなかったかは分からない。
今日生じなかった接点は明日得られる情報を変える。明日得られなかった情報は来月の選択を変える。選択が変わればその先で接続できる人、仕事、場所、コミュニティも変わる。
最初の差は小さくてもその差から始まる変化は小さいとは限らない。
失っているのは個別の機会だけではない。
接続しなかった世界そのもの。
その損失は見えない。
だから昨日のコピーを今日も続けられる。
ただでさえ知らないものを失い続けているのに。
それでいい人はそれでいい。
GlassRoomはその人のためには作らない。
偶然そのものは設計できない。
誰に会うか。何を知るか。何に興味を持つか。どんな出会いが仕事につながるか。何が数年後まで残るか。そこまでは決められない。
偶然が起きる条件は設計できる。
普段なら交わらない人が同じ場所にいること。異なる仕事や興味を持つ人が近くにいること。まだ価値の決まっていないものが人の目に触れること。目的のない会話や予定されていない接続が発生できること。
GlassRoomが設計するのは新しい人、新しい仕事、新しい考え、新しい未来が入り込める条件だ。
その先で何が始まるかはこちらにも分からない。
分からないものと接続するために偶然が起きる条件だけを作る。
stillperable in GlassRoom
偶然が起きる条件を設計する。
偶然そのものは設計できない。誰に会うか、何を知るか、 何に引っかかるか、その接続が数年後に何になるかまでは決められない。 でも、普段なら交わらないものが同じ場所に存在し、 まだ価値の決まっていないものが人の目に触れ、 予定されていない接続が発生できる条件は設計できる。
接続された後にしか分からない。
































