何も起きなかった日について
社会について明るく書こうとすると急に文章の信用が落ちることがある。
社会は誰か一人を幸福にするためだけに作られていない。ある場所で制度が機能していても、その外側に届いていない人はいる。「世界は良くなっている」と大きく括ればその文章からこぼれる人が必ず出る。暗さなら傷のある場所を指せる。明るさには全体を代表して話す資格がなかなか与えられない。
それとは別に明るいことには記録されにくい性質がある。社会の機能は成功したときほど出来事にならない。
夜に家まで帰った。知らない人と同じ電車に乗り何もなかった。飲んだ薬が効いて数日後には薬の名前を忘れた。蛇口をひねれば水が出た。送った荷物は会ったことのない人たちの手を通り、知らない街を越えて予定の日に届いた。どれもかなり複雑なことが成立した結果なのに成立した瞬間から説明する必要がなくなる。
成功したものほど話が短い。
電車が止まれば理由を調べる。水が出なければ管理会社へ連絡する。薬が効かなければ病院へ戻る。荷物が届かなければ追跡番号を見る。危害を受ければその数分が何年も残る。機能しなかったものには原因が生まれ、当事者が生まれ、時刻が記録される。機能したものは何事もなかったように背景へ戻る。
橋は今日も落ちなかった。食べ物は多くの場合そのまま食べられた。送金した数字は相手の数字になった。知らない医師に身体を預け予定された処置を受けて帰った。街には会ったことのない人が沢山いる。そのほとんどとは今日も何の出来事も始まらなかった。
何も始まらなかったことに見出しはつかない。
一度うまく機能したものは当然になる。以前なら数日かかったことが数秒になり、その数秒に慣れた人は五秒待たされて苛立つ。遠くの人といつでも話せることは驚異ではなく、通信環境という最低条件へ移る。助かった経験は「助かった出来事」として長く保存されず次から要求水準の側へ組み込まれる。
社会が何かを改善するとその改善は評価項目から消えていく。
昨日まで危険だった場所が安全になれば安全になった事実よりまだ危険な場所の方が見えるようになる。選択肢が一つ増えれば次には二つしかないことが問題になる。それは間違いではない。改善されたから黙る必要もない。改善には自分の功績を消していく性質がある。昨日の不自由を一つ取り除くとその不自由が存在していたことまで現在から見えにくくなる。
明るさは達成されるたび基準線の下へ沈む。
だから過去と現在を比べると記録の条件が最初から揃っていない。昔の失敗は事故、病気、差別、欠乏、制度の欠陥として歴史に残る。現在の失敗は今日の痛みとして高い解像度で見える。一方で途中で解決された大量の問題は環境へ溶けている。人は現在の社会を現在まだ壊れている場所から評価しやすい。その背後には壊れなくなったために視界から消えた場所が大量にある。
もちろんそこから「社会は良くなった」と一行で結論を出すことはできない。誰かに開いた入口が別の誰かには届いていないこともある。技術は救いながら別のものを失わせる。制度は守りながら取りこぼす。社会全体を一つの明るさへ換算すること自体に無理がある。
それでも改善されたものには共通する消え方がある。
昨日なら起きていたことが今日は起きなかった。事故にならなかった。病気が長引かなかった。届かなかったものが届いた。帰れなかった人が帰れた。そこで止まっていたものが止まらずに済んだ。誰かが途中で作った仕組みや、守った手順や、直した欠陥が、その日の出来事そのものを消している。
その日はニュースにならない。写真も残らない。本人も数年後には覚えていないかもしれない。無事に帰った夜について毎年記念日を作る人はいない。水が出た朝について語り継ぐ家族もほとんどいない。予定どおり届いた荷物は開封され、中身だけが生活へ入り、配送が成功したという事実は消える。
社会の明るさを探すなら、祝われている出来事だけを見ても足りないのかもしれない。誰にも記録されなかった帰宅。鳴らなかった警報。必要にならなかった救急車。治った傷。予定どおり着いた電車。誰とも争わずに終わった一日。そこには成功したために出来事として成立しなかったものがある。
明るい社会を書くのが難しいのは明るさが弱いからではない。
うまくいくほど証拠が消えるから。
何も起きなかった。
だから何が成功していたのかは残らない。
































