「メンタルをケアする」という言葉はよく使われる。休む。眠る。誰かに話す。仕事から離れる。好きなことをする。必要に応じて専門家へ相談する。こうした行動はまとめてメンタルケアと呼ばれることがある。
ただ「何をケアしているのか」と聞くと急に対象が曖昧になる。
歯のケアなら歯がある。肌のケアなら皮膚がある。筋肉のケアなら筋肉がある。対象の位置もある程度は変化も確認できる。
メンタルの場合「メンタル」という一個の器官があるわけではない。
不安、疲労、睡眠不足、注意の偏り、身体の緊張、記憶、自己評価、将来の予測、人間関係、仕事量、金銭条件、孤立。実際には性質の異なるものが同時に関係しているのに、本人の主観では「しんどい」「メンタルが落ちている」という一つの状態として経験される。
「メンタル」という言葉はかなり多くの現象を一語に圧縮している。
この圧縮は日常会話では機能する。「最近メンタルがきつい」と言えば細部を全部説明しなくても状態が良くないことは伝わる。
しかしケアを考える段階ではこの圧縮が問題になる。
何が起きているのかを一語にまとめたままでは何を変更すれば状態が変わるのかも分からないからだ。
たとえば「不安が強い」という状態がある。
その不安にはまだ確定していない出来事を繰り返し予測している時間が関係しているかもしれない。睡眠が崩れていて、身体が長時間緊張しているかもしれない。仕事上の条件が実際に不安定なのかもしれない。誰にも話していないため自分の内部だけで同じ仮説が循環しているかもしれない。
表面に出ている感覚が同じ「不安」でも発生している条件は同じとは限らない。
だとするとメンタルケアの対象を「不安」という感情だけに設定すると足りない場合がある。
睡眠を変更すると状態が変わる場合がある。予定を減らすことで変わる場合がある。金銭条件を整理すると変わる場合がある。人との距離を変更すると変わる場合もある。
つまり感情は必ずしも最初の原因ではない。
複数の条件が接続した結果として最後に本人が認識できる形まで出力されたものが感情である場合がある。
ここで「メンタルケア」という言葉の意味が変わる。
心の中にある何かを直接修理する作業として考えるより、苦痛がどこで発生し、何によって増幅され、なぜ持続しているのかを分解し、その条件を変更する行為として考えた方が扱える範囲が広い。
この見方をすると休むという行為も別の形に見える。
休息そのものが「メンタル」という対象へ直接作用しているとは限らない。外部から入ってくる要求を一時的に減らし、注意を占有していた処理を減らし、身体への負荷を下げる。その結果として内部で継続していた処理の量が変わる。
誰かに話すことも同じ。
話した内容が魔法のように消えるわけではない。自分の内部だけに存在していた情報が外部へ出る。相手から別の情報が返ってくる。自分だけで作っていた仮説に自分以外の入力が加わる。その結果それまで閉じていた処理の形が変わることがある。
睡眠も、散歩も、仕事を休むことも、相談も、同じ一種類の効果を持っているわけではない。
それぞれが別の条件へ作用している。
それでも結果として本人の状態が変わるためまとめて「メンタルケア」と呼ばれる。
ここまで分解すると「メンタル」という言葉には一つ大きな省略が含まれていることが分かる。
苦痛の発生場所が本人の内部に限定されていない。
仕事量が多すぎる。収入が不安定である。継続的に攻撃的な言葉を受けている。休息できる時間が少ない。騒音が続いている。安心して話せる相手がいない。
こうした条件は本人の外側にある。
しかしその結果として現れる不眠、不安、疲労、集中の困難、自己評価の低下は本人の内部で経験される。
そこで結果だけを見ると「本人のメンタルに問題が起きている」という説明が成立する。
発生源が外部にあっても、症状が本人の内部に出るため、問題の所在地まで本人の中にあるように扱われやすい。
ここにはかなり重要な区別がある。
苦痛を感じている場所と苦痛を生成している場所は一致するとは限らない。
人間関係によって発生した緊張は身体に残る。仕事上の不確定さから始まった問題が夜になって未来予測として継続する。金銭条件から始まった不安が自分の能力への評価に変換されることもある。
発生源と最終的に本人が認識する感覚のあいだには複数の工程がある。
だから「メンタルが弱っている」という一文だけではまだ何を変更すべきかは分からない。
ここでメンタルケアを「本人を落ち着かせること」とだけ定義すると別の問題が出てくる。
本人が苦痛へ適応できるようになったとしても苦痛を生成している条件がそのまま残る場合があるから。
大量の仕事に耐えられるようになる。攻撃的な人との接触を受け流せるようになる。不安定な条件の中でも感情を乱さず動けるようになる。
本人の負担が減るならそれ自体には意味がある。
ただそれだけをケアの成功として扱うと「その環境は人に何を要求しているのか」という別の問いが消える。
メンタルケアにはここから二つの方向が現れる。
一つは人間側の状態を変更すること。
もう一つは人の状態を悪化させている外部条件を変更すること。
実際にはこの二つを完全に分離することは難しい。外部条件を変えても内部に残る反応がある。内部の扱い方が変わっても外部条件が継続すれば再び負荷が加わる。
だからメンタルケアの対象を一個の「心」に限定すると起きていることをかなり取りこぼす。
対象になっているのは人間の内部だけではない。
睡眠と仕事量の接続。
身体と緊張の接続。
記憶と現在の刺激の接続。
未来予測と未確定な条件の接続。
自己評価と他人から受け取る情報の接続。
人間と環境のあいだにあるこうした接続全体のどこかを変更している。
そう考えると「メンタルケアって何をケアしてるの?」という問いへの答えは、一語では終わらない。
ケアしているのは感情だけではない。
感情が発生するまでの条件、その感情が増幅される条件、その状態が長く残る条件、そして本人と外部環境の接続まで含まれる。
「メンタル」という言葉はその全体を短く呼ぶために使われている。
短く呼べることと単純であることは同じではない。
むしろ問題は逆にある。
一語で呼べるために内部で何が起きているのかを確認しないまま扱えてしまう。
「メンタルをケアする」。
その言葉を使う前にもう一つ確認できる。
いま何をケアしようとしているのか。
その対象が分からなければケアという行為だけが先に存在する。
そして対象を分解していくと、ときどき本人の外側まで辿り着く。
そこから次の問いが始まる。
メンタルケアは人間を環境に適応させているのか。
それとも人間の状態を悪化させている環境までケアの対象に含めるのか。
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Written by stilloperable
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