世界に触れない

何かを経験しても、最後にはすべて「自分に起きたこと」として持ち帰れてしまう。世界に触れること、自分を知ること、変わることの関係を考える文章。

DO NOT TOUCH THE WORLD. IT TOUCHES BACK. 世界は触ると昨日のあなたを返品してくる。

何かが終わるたび、ちゃんと元の自分に戻ってくる。遠くへ行っても、誰かを好きになっても、ずっと欲しかったものを手に入れても、しばらくすれば全部「自分に起きたこと」になる。写真が残る。話せる話になる。あの頃は、と言えるようになる。出来事はそれぞれ違ったはずなのに、保存される頃には同じ形式をしている。経験した自分だけが増えて、経験する前にはなかったものが現在に居座ることは少ない。帰り道だけ、ずいぶん上手くなった。

外へ出れば、本来は自分ではないものに会っている。知らない街にはこちらと関係なく朝があり、会った人にはこちらの知らない年月があり、好きになった人にも自分が一秒も登場しない一日がある。それなのに持ち帰る頃には、あの街は好きだった、あの人とは合わなかった、あの時間は楽しかった、という情報へ変わる。世界に会ったはずなのに、最後に増えているのは自己紹介の方だったりする。

楽しかった日ほど、家に帰ると急に薄くなることがある。数時間前まで本当に笑っていたし、帰りたくないとも思っていた。玄関を閉め、服を脱ぎ、写真を見る。「楽しかった」と言えば正しい。その正しさによって、今日が終わる。写真には自分もいる。誰と何をしたかも分かる。証拠が揃うほど、その日にいた人から、その日について説明できる人へ移っていく。

嫌だったことにも似た処理が起きる。最初は思い出すたび体温まで変わったものが、いつか「あの件」になる。あの人はこういう人だった。あの頃の自分には分からなかった。今なら説明できる。言葉が見つかるたび、出来事は手に持てる大きさになる。それによって助かることもある。ただ、何にでも後から意味を与えられるなら、自分を壊しかけたものまで履歴になる。傷ついたことさえ、自分という人物を説明する材料へ回収できる。

ここまで上手くなると、未来にも同じことを始める。やったらどうなるかより、やめたあとどうなるか。好きになるかより、終わったあと困らないか。行きたいかより、行って何もなかったとき自分がどう感じるか。まだ起きてもいないのに、その未来を過去として眺めている自分がもういる。始める前から「あのとき一回やってみたけどね」と言える場所まで行ってしまう。現在へ入るより先に、帰ってきた自分が待っている。

そのせいで、失敗したことより始まらなかったことの方が増える。禁止されたわけではない。興味がなかったわけでもない。ただ、最後まで想像すると全部きれいに片づく。楽しそう。自分ではない気もする。少し気になる。その先は面倒かもしれない。可能性そのものは否定しない。ただ、現実になる前に折り畳んでしまう。拒絶さえしていないから、何を失ったのかも分からない。

自分をよく知っていることまで帰り道になる。こういう服なら自分。こういう人が好き。こういう場所なら落ち着く。ここまでならできる。これ以上は自分らしくない。その判断は自然に出てくるので、誰かに決められている感覚もない。自分で選んでいる。ただ、昨日までの自分だけが投票権を持つ選挙を何年も続ければ、結果はそんなに荒れない。まだ出てきていない自分には、候補者名簿すら届かない。

人間関係もその選挙を補強する。この人にはこれを話す。この友達の前ではこの速度で喋る。この人たちの中ではこう笑う。長く一緒にいるほど説明はいらなくなり、その代わり、説明のつかない自分を出すと小さな会見が始まる。急に違う服を着れば、どうしたのと聞かれる。昨日まで興味のなかったことを始めれば、何かあったのと聞かれる。誰も止めていない。ただ、知っている人が増えるほど、変わるだけで理由が必要になる。

そのうち「何をしたいのか分からない」が始まる。したいことがないというより、したいことになる前のものを全部帰している。欲望は最初から完成した文章では来ない。なんとなく気になる。理由はないのにもう一回見たい。自分には関係ないはずなのに忘れられない。なぜかそこだけ目に入る。その程度で来るものがある。そこで将来につながるか、向いているか、続けられるか、自分らしいかまで答えさせれば、生まれたばかりのものはだいたい負ける。

「自分を知る」という行為は、ときどき自分を守るより先に、自分を過去へ固定する。好きなものを知る。苦手なものを知る。向いている場所を知る。合わない人を知る。精度が上がるほど判断は速くなる。その速さの中で、まだ自分のものになっていないものを切る速度まで上がる。知らない自分に会う前に、既知の自分が回答する。

たまに、その回答が間に合わないことがある。自分なら選ばない写真を誰かが撮っていて、それだけ何度も見てしまう。どうでもよかった会話を相手がずっと覚えている。似合わないと思っていたものを、初めて会った人だけが何の疑問もなく受け取る。こちらには大した意味がなかった一日が、別の人の中では長く残っている。こちらが感想を決めたあとにも、出来事の方に別の行き先があったことを知らされる。

そういうものだけ、持ち帰り方が分からない。「自分にとってはこうだった」で閉じても、向こうには向こうの続きがある。こちらが忘れていても誰かは覚えている。こちらでは終わったことになっていても、別の場所ではまだ一度起きたこととして作用している。自分が席を立ったあとも場面が続く。自分の物語に世界が登場していたと思っていたのに、世界の側から見れば、こちらも一度そこを通過した登場人物にすぎない。

そこで、自分の感想が最終決定ではなかったことを知る。楽しかったと決めたあとにも、その日の意味は増える。失敗だったと決めたあとにも、別の場所では何かが続いている。似合わないと決めた姿を、他人だけが長く覚えている。こちらが「もういい」と言ったあとにも、世界にはこちらの許可を必要としない時間がある。

世界に触れるというのは、経験をたくさん持つことではないのかもしれない。遠くへ行った回数でも、会った人数でも、恋をした数でも、始めたことの数でもない。それらを全部きれいに自分の話へ変換して帰ってこられるなら、何百回外へ出ても、自分という場所から一度も動かずにいられる。

戻れなくなるのは、大きな失敗をしたときとは限らない。「私はこういう人」という説明が、ある日ひとつだけ通用しなくなったときだ。昨日までなら選ばなかったものを選んでしまう。嫌いだと思っていた場所へまた行く。似合わないと思っていた姿を捨てきれない。どうでもいいはずだった出来事だけが何年も残る。自分について何度も使ってきた文章が、あとから来た一日ひとつに負ける。

その一日を「意外だった」で処理すれば、また帰れる。「あの頃はそういう時期だった」と名前をつければ、過去へ送れる。人はかなり多くのことを、自分の説明を壊さない形まで小さくして保存できる。だから変わったように見えて、説明だけはずっと同じままということが起きる。新しい服を着ても、新しい場所へ行っても、新しい人に会っても、「こういう自分もいる」と追加するだけなら、中心は何も譲っていない。

世界の側に主導権が移るのは、追加では済まなくなったときだと思う。好きではなかったはずのものが、好きなものの一覧を変更する。向いていないと思っていたことが、できることの一覧ではなく、やめたくないことの方へ入る。自分とは違うと思っていた人の言葉が、こちらの判断より長く残る。出来事が自分の履歴へ入るのではなく、自分の説明の方を書き換え始める。

そこまで来ると、経験した自分が一人増えるだけでは終わらない。戻る場所そのものが消えている。以前なら自然に選べたものが選べない。以前なら笑えた説明が急に薄く見える。自分を守っていたはずの「私はこういう人」が、急に昨日の日付を持ち始める。

自分を変えようと決めたわけではない。成長したとも言い切れない。何かを克服した話でもない。ただ、外にあったものがこちらの説明より強かった。それだけで、昨日まで自分だと思っていたものの一部が過去になる。

たぶん、世界に触れるというのは、そのくらい一方的なことなんだと思う。こちらが意味を選び、必要な分だけ持ち帰り、残りを置いてくることではない。向こうにもこちらを変える権利がある。こちらが終わらせても終わらない。こちらが忘れても消えない。こちらが「自分らしくない」と判断しても、その判断の方が古くなることがある。

世界に触れない。

何も起きないんじゃない。

何が起きても、自分に戻れてしまう。

stilloperable

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stilloperable
個人ブログ。インターネット、仕事、学校、アイドル、まだ名前のついていない仕組みについて書いています。現在、GlassRoomというアイドルプロジェクトを準備中。

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