この世界がフェイクでも君に会ったことまでフェイクにならない。
この世界が本物だと証明するのは難しくなった。写真は証拠にならない。声も証拠にならない。動画の中で誰かが話していても、その人がその文章を一度も口にしていないことがある。存在しなかった場所を生成できる。存在した人を消せる。過去の映像にいなかったものを足せる。フェイクは本物に似せる技術だったはずなのに本物の方が「これは生成ではありません」と釈明する側へ回った。
朝になると昨日の続きを渡される。脱いだ服。途中まで飲んだ水。未読のメッセージ。検索履歴。午前二時に保存した画像。世界は大量のログを残して「昨日はありました」と主張してくる。昨日一日分の記憶と物証を今朝まとめてインストールされていたとしてもこちらには判別できない。昨日を生きた記憶と昨日を生きたと思わせるためのデータは本人から見れば同じ場所に保存される。
記憶の方もそれほど信用できない。確実にあった一日の会話は抜けているのにその日に撮った写真の構図だけは覚えている。何度も見返した写真が実際に見た景色を少しずつ上書きする。昔の自分の投稿を読むと知らない人が自分のアカウントを使っていたように見える。名前は同じなのに中身は何度も更新されている。人間も端末と大差なくてデータだけ引き継ぎながら別のバージョンになっているのかもしれない。
世界も一本とは限らない。あの日メッセージを送った世界。送らなかった世界。一本早い電車に乗った世界。コンビニに寄った世界。そのまま帰った世界。右へ曲がった世界。左へ曲がった世界。こちらが「現実」と呼んでいるものは無数に分岐したうちの一本を最後までスクロールしているだけなのかもしれない。別の枝では今も知らない人がいる。別の枝ではもう会わなくなった人がいる。こちらでは何でもなかった五分が別の枝ではその後を全部変えている。
そうなると運命も少し様子が変わる。最初から一本だけ用意されていた道ではない。大量に分岐した枝の中で今のところ接続が切れていない一本。起きたことだけをあとから一本線にしてその線に名前をつけている。偶然だったものも通り過ぎなかったという理由だけで過去になる。
その枝に君がいる。
君が本物だという保証もない。私が見ている君は君そのものではなく声や表情や文章や過去の会話からこちら側でレンダリングした人物像かもしれない。返信が来ないだけで何通りもの君を生成する。次に会う予定が決まるとまだ存在しないその日の君を先に作る。機嫌がいい君。疲れている君。少し髪が変わっている君。会う前から脳内には何人も君がいる。
恋愛は昔からかなり仮想現実だった。相手の全部を直接取得できるわけではない。届いた断片から勝手に補完して勝手に次の場面を生成してそれでも本人に会いに行く。既読がつかなければまだ起きていない会話を何本も作る。次に会う日を決めればその日まで存在しない未来を何度も先に見る。現実の相手より先にこちらで作った相手と何度も会っている。
十八時四十二分。改札を出る。
そこで脳内にいた君が一回壊れる。想像していた服と違う。声の高さが記憶より少し低い。最初に言うと思っていたことを言わない。こちらが事前に生成していた君を目の前の君が上書きしていく。会うというのは確認ではなく予測が壊されることなのかもしれない。
それでも目の前の君が本物かどうかは分からない。この世界自体がシミュレーションなら改札も君も私も同じ側のデータ。今が夢なら目が覚めた瞬間に全部消える。分岐した世界の一本ならこの時間のすぐ横には「今日は会わなかった」が存在している。写真にすれば加工される。記憶にすればもっと加工される。数年後には今日のかなりの部分が欠けて残った数枚の画像から一日を再生成することになる。
それでも帰る時間になるともう少し一緒にいたいと思う。
その瞬間だけ本物かフェイクかという判定が止まる。脳内で生成された感覚なのかもしれない。どこかの分岐条件を踏んだから発生しただけかもしれない。世界の外側には、この会話も、この駅も、この二人も最初から書かれたデータとして並んでいるのかもしれない。それを知ったところで、帰る時間が少し早すぎることは変わらない。
別の枝では会っていない。別の枝ではもう離れている。別の枝では名前すら知らない。一本早い電車に乗っただけで消えた枝もある。送らなかった一通のせいで始まらなかった枝もある。あの日眠くて断っただけの枝。あと五分だけ残った枝。言わなかった枝。言ってしまった枝。その全部がどこかでまだ続いているとしても、こちらから同時に生きることはできない。
触れられる世界はいつも一本だけ。
十八時四十二分に改札を出る。君を見つける。歩き出す。何か食べる。意味のない話をする。途中で端末を見る。信号を待つ。少し遠回りする。帰る時間になる。まだ帰りたくない。
世界の正体についてはそのあいだ何ひとつ判明しない。
写真はフェイクかもしれない。記憶は再生成かもしれない。昨日はあとから挿入されたログかもしれない。私は私の旧バージョンかもしれない。君もこちら側でレンダリングされた誰かかもしれない。この枝だって無数にあるうちの一つでしかない。明日の朝になれば今日の記憶まで昨日というフォルダへ移される。
それでも君の隣にいるあいだだけ別の枝を開く必要がない。
世界は最後まで未確定のまま。
十八時四十二分だけもう分岐してない。
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